捌きの普段の稽古のコア(究極の目標)は、自分の制空権に、相手の「一撃」が入ってきた場合に、その攻撃をスル―する(見過ごす)ことなく「必ず捌く」ことにある。
すなわち、「一撃必捌(いちげきひつばつ)」の理念を、瞬間捌き(=流し、崩し、倒しの捌きの一連の局面を限りなく一挙動に収れんさせる)で実現できるように、先代館長が提唱された「誰にでもできる空手」 から 「誰もが続けられる空手」、すなわち「生涯捌道」として怪我なく生涯にわたり捌道に精進することにある。
流し崩しは、相手に攻撃を加えて痛めながら倒したり、相手の攻撃のインパクトを決してブロックしたりカットしながら相手の攻撃ベクトルを変えことなく、なるだけ、攻撃したいという相手の気持ちに寄り添いながら、その攻撃のインパクトをステップで流して、フォロースルーを受け等で崩して、カウンター攻撃で倒して、という捌きの究極のスタイルであり、「誰もが続けられる空手」である。
以上は、人生の捌きに直結する。人生の捌き(=仕事を含む社会貢献)に直結していない空手のそれは、本物の捌きではない。生涯を通じて、空手を含む人生の捌きを究めていくのが、「生涯捌道」である。人生の捌きの究極は、たとえ相手が攻撃する気持をもっていても、失せてしまうような雰囲気(=風韻)である。相手の立場に立って、その心境を思いやり、戦いを略(はぶ)く、それが戦略である。すなわち、「戦わずして勝つ」のではなく、「戦わずして和する」のである。
空手道場の捌きの黒帯が、社会人の黒帯をとれないのは矛盾そのものである。捌くのは、空手の相手だけではない、仕事を捌く、スケジュールを捌く、人間関係を捌く・・・・・。捌きは日常生活の生き方そのものである。手を握って拳をつくるのは、捌道の自殺行為である。相手の動き(ベクトル)を柔らかく流す、相手の動きに逆らわない、相手の動きに寄り添う、相手の攻撃に逆らわないで、むしろその動きの方向に加担して、相手の体軸のバランスを崩し(流し崩し)、相手の動きにギリギリまで退かないで(見切り)、又は相手の体に寄り添って体幹の軸と一体化して(密着)、相手の体の軸が不覚にも崩れたところをカウンターで攻撃(突き、蹴り)するのが表の捌き、そこを怪我のないように相手を気遣いながら柔らかく投げて、相手に謙虚に負けを認めさせる(制圧)のが裏の捌き。
日本刀で言えば、刃で斬ること(表の捌き)と峰打ち(裏の捌き)の表裏一体の関係である。
「抑止力」(武道)⇒後の先(=先手必勝に非ず、先手必負、先手した方が必ず負ける)
「日常生活力」(人生)⇒仕事や人間関係の捌き
※呼吸は、攻撃は吐く。捌きの3局面のうち、流し、崩しは吸う。
※仕事は、スピード、タイミング、リズムで捌く。
力は抜きどころ(脱力)と力を入れるタイミングが肝要。
※人間関係は、相手の呼吸に合わせる。相手が吐けば吸う、吸えば吐く。
※物事(課題・問題)は、真正面だけ見て表面的に判断しない。
サイドに立つと、その奥行きがわかるから、立体的に把握できて段取りが組める。
体軸の重心が不安定になるようにすること・前崩し・後ろ崩し・下崩し・ねじり崩し・浮き崩し
崩しの手段の3パターン
1:(手の)受け 2:(足の)合わせ 3:攻撃
※(足の)合わせ・・関係部位を蹴り込むのではなく、相手の重心移動のタイミングを図って相手の密着部に合わせて崩す ①膝裏関節踏み込み ②ヒッカケ ③軸足流し崩し ④蹴り足着地直前の合わせ
カウンター攻撃は表(メイン)の捌き、制圧は裏(サブ)の捌き
・シンプル(単純な挙動)のS
・スピーディー(瞬間的に捌く)のS、
・セーフティ(相手を傷めない、過度なダメージを与えない)のS
以上の「3つのS」を重視した捌きのスタイル。
相手の脳が攻撃意識から防御意識に切り替わらないように、相手が攻撃したいという気持ち(攻撃意識)に寄り添って、攻撃のベクトルを変えないままステップで流して、受け等により攻撃のベクトルに加担するあまり、相手が体軸を崩したところへ、カウンター攻撃(=表の捌き)し、引き続き、制圧する(=裏の捌き)倒しへ繋げる一連の挙動である捌きの最もコアな部分をいう。(表裏一体の捌き)
相手の攻撃の途中にカットやブロックをすると、脳は相手を攻撃したと錯覚して、次の攻撃態勢に移る。しかし、攻撃のヒットポイントとして当初予測した当たるべきポイントに当たらないと、脳の攻撃意識は一瞬戸惑うのが、「居着き」となる。この瞬間を受け等で体軸を崩して、カウンターの攻撃につなげていく。
防御意識の薄い相手を崩した後のカウンターの攻撃のインパクトは絶大である。従って、否が応でも顔面ガードの癖付けができないといけないし、こうした稽古を積み重ねれば、自ずと顔面ガードの癖付けができるようになる。
伝統流、芦原を含むフルコン系に関わらず、「三戦立ち」は、空手道を志す者にとっては、コンピューターに例えれば、OSのような位置づけにある。あとの技術はアプリケーションソフトみたいなものである。
この立ち方で、型の「三戦」を真に習得し、継続すれば、生涯武道の精華を実践していくこととらえても過言ではない。もちろん、その根底には、「息吹」という重要なファクターがある。
芦原でも、基本はこの立ち方であるが、空手を学び始めて40年以上を費やしている。この40年間、どういう足と体幹のポジションをとれば、最も安定した立ち方になるか、試行錯誤して、体得した知見は、両足を正三角形の形状の一部に位置させて、その正三角形の重心と臍下丹田の位置を合わせると、一番体軸が安定することである。
この知見はあくまで経験知だが、いずれ物理学的な科学的検証で実証されることを確信している。
空手とは、「空」の「手」である。空っぽの手で40年以上かけて掴んだものが、これである。
風 韻
プロレスラーにわざわざ喧嘩を売るバカはいない。これは彼のいかつい風貌が成せる業。
一方で、内から凛とした雰囲気と寸分の隙の無さを醸しながらも、自然体で穏やかで柔和な佇まいにより、相手が攻撃する気持ちさえ失せてしまうような雰囲気が、「風韻」である。
風貌は道場の稽古でも身につくが、「風韻」は、稽古であろうが仕事、読書、普段の日常生活であろうが他人の見ていないところであろうが、すべてが修行、すなわちどんな人生の局面でも凄味を出せる気構えと行動を伴う全一(いざというときは、心、体、魂の丸ごとを投企できるようにする)の修行が無ければ身に付かない。
個人だけではなく、国家の理想的な立ち位置でも同様である。
全一で生まれる凄味によって醸し出された余裕が「風韻」をつくる。
真の「サムライ」とはこういうことである。